BRAND STORY 02
1931-1960

「順調な発展と焼け跡からの再建。
コンプレッサ、塗装機械・塗装設備の総合メーカへ

1950年代に新設した綱島工場

成長期に忍び寄る戦争の影

性能が評判となり、第2工場を建設するも2度の空襲ですべてが灰に

1940年に一部完成した下丸子工場
1940年に一部完成した下丸子工場

当社はスプレーガン、コンプレッサともに性能の良さが評判になり、市場の要請に応えて増産を進めていった。1936年、大田区下丸子町500坪の土地を借り、第2工場を建設した。1940年6月には生産設備をすべて移し、第1工場のあった恵比寿は、本社営業所のみとした。また組織を法人化し、社名を合資会社岩田噴霧塗装機製作所とした。しかし、こうした社業の順調な発展にもいつしか戦争の影が忍び寄ってきた。1937年、「輸出入品等に関する臨時措置法」、「臨時資金調整法」等の公布によって、軍需産業が優先されるようになり、1938年4月には「国家総動員法」が公布され、資材調達や労働力の確保にも影響がでるようになったのである。資材はすべて配給となり、手持ちの資材を使い果たした1939~40年頃には、当社は目に見えて生産量が落ちた。1944年末から京浜急行の弘明寺駅裏手を掘り進め、地下に工場を建設したが、機器類を移転する直前の1945年3月9日、4月15日の2度の空襲で下丸子工場は全焼、製造設備をはじめ従業員の備蓄食糧はすべて灰になった。1945年8月15日、なすすべもなく終戦を迎えた。

焼け跡から社員18名で会社を再建

再建当初は家庭用製粉機と農業用噴霧器を製造 やがて塗装機器の問い合わせが増え、本業へ復帰

1950年当時の全従業員
1950年当時の全従業員

終戦後、わが国は食糧難など、未曾有の混乱に陥ったが、それは当社とて例外ではなかった。従業員を養っていくためには、焼け跡からはい上がらねばならなかった。1945年9月27日、集まった社員18名での会社再建が始まった。まずは総出で古材を集め、地下工場脇にバラックを建てた。焼け残りの機械類を引っぱり出し、整備して、どうにか生産体制らしきものを整え、当面はコンプレッサやスプレーガンではなく人々の生活に欠かせない製品を製造していくことになった。そして戦後の混乱が少しずつ落ち着いてきた1947年中頃から、ぼつぼつ塗装機器の問い合わせが舞い込んでくるようになった。当社が本業に復帰するチャンスは意外に早くやってきた。

工場増築と新製品の開発に着手

独自技術によるスプレーガンの全面改定に注力 時流を読み、コンプレッサの生産設備を拡充

左から:S-1号型スプレーガン、S-2号型スプレーガン、B-3号型スプレーガン
左から:S-1号型スプレーガン、S-2号型スプレーガン、B-3号型スプレーガン

1948年9月、当社は30万2,000円の増資を行い、資本金を50万円として、工場増築と新製品開発に着手した。最も力を注いだのが、スプレーガンの全面改定であった。戦後の再出発を機に、当社独自の技術で開発を目指したのである。完成したスプレーガンはS型とB型の2種で、少ない空気量で使用できることが最大の特長であった。デザインも一新し、B型は噴出量が多く、作業性が向上するとして歓迎され、S型は日本人の手の大きさにフィットした使いごこちと、低出力のコンプレッサで使用できる経済性が受けた。一方のコンプレッサは、スプレーガンよりも高度な製造機器を必要とするため、戦災を受けた機械類では増産がおぼつかなかった。そこで1949年9月に銀行の融資を受け、重工業大手から中古旋盤、ターレット旋盤、研磨盤等を購入したのである。さらにこれらの機械を担保に融資を受け、生産設備の拡充を急いだ。それまでの事業はすべて手元資金でまかなう慎重な経営が信条だったが、時代の流れを読んだ大きな決断であった。

日本経済の復興に伴う生産量の増大に対応

需要に応えられる新工場を横浜に建設 岩田塗装機工業株式会社を設立、株式を公開

1947年頃、恵比寿駅前本社営業所
1947年頃、恵比寿駅前本社営業所

1950年に発生した動乱特需で日本経済が息を吹き返し、当社の生産量が増大するのにあわせ、経営全般を見直す必要がでてきた。緊急に見直さなければならなかったのが生産設備であった。弘明寺工場は需要の増大にあわせて増築に増築を重ねたが、やがてそれも限界に達していた。そこで、横浜市港北区南綱島町に新工場を建設することを決意し、1953年4月までに全面移転をおこなった。また、バラック建てだった恵比寿の本社も、工場の新築を待って建て替えることになり、1956年に完成した。その後の1957年4月に合資会社の事業を全面的に引き継いだ岩田塗装機工業株式会社が設立され、1961年には株式公開をおこなった。また、1956年10月に特に当社と密接な関係にある46社の外注先によって、1956年に「IHS協力会」が結成された。当社は年4回の例会に出席し、経営方針の説明やお互いの意見交換を行って、意思の疎通に努めた。

高度経済成長の流れを読み、総合メーカへ発展

4年をかけてスプレーガン「ワイダー57(W-57)」を開発 自動車塗装向け市場のシェアを取り戻す

経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した1955年頃から、わが国の工業生産は一挙に拡大へと向かった。高度経済成長の始まりであった。その頃から徐々に近代的な生産体制、経営体制を整えつつあった当社は、大きな好況の流れへと挑んでいった。最大の課題は新製品の開発であった。1954年、今日の自動塗装機の原型となる「回転式自動塗装機」や、塗料を薄いフィルム状に流下させ、塗料のカーテンを形成し、品物がここを通過することで塗装する「フローコータ」の開発がきっかけとなり当社の事業分野は拡大し、「コンプレッサ、塗装機械・塗装設備の総合メーカ」となった。主力製品のスプレーガンやコンプレッサでも改良が行われた。スプレーガンは、先進国の欧米でも経験則に従って開発されていたが、当社は機構を理論的に解明することで、さらに高性能のスプレーガンが開発できるのではないかと考えた。4年の歳月を費やし、塗料ノズルの口径、先端部の形状や寸法と塗料の微粒化の関係を徹底的に調べあげた。その結果、塗料の微粒化は、空気孔を通過する空気量、キャップの中心径、塗料の噴出量で決まることが明らかになった。これを基に開発されたのが1956年の「ワイダー57(W-57)」であった。W-57はその圧倒的な性能で高い支持を得、外国製品の独壇場であった自動車塗装向け市場でもシェアをひっくり返した。

小型コンプレッサのコストダウンと性能アップを実現 全国にセールスエンジニアを配置するなど販売も強化

一方、コンプレッサの市場では、廉価で圧縮効率がよく、メンテナンスの簡単なものが求められていた。開発の狙いは小形高速回転化に絞り込まれた。そこで試行錯誤した結果、1955年には「C-O-10」、「C-O-11」が完成した。C-Oシリーズは小形で回転速度は900回転(従来は毎分500回転)を達成し、1962年にはシリンダ、ピストン、連結棒等の部品の共通化を行って大量生産によるコストダウンを実現した。さらに振動や騒音の軽減、耐久性の向上など、技術の粋を注ぎ込んだ結果、小型コンプレッサの売上が全社売上の50%を上回るようになった。製品開発と並行し、生産ラインでもコスト低減と生産効率の向上を目指し、合理化が進められた。コンプレッサをはじめ、コンスタントに売れている製品については、流れ作業方式を導入しコストダウンにつとめた。また、製品開発と並んでもう一つの大きな課題は販売網の強化であった。1960年前後から全国を10ブロックに分け、直営の営業所を設置し、セールスエンジニアを配置するなど、販売の強化に乗り出していった。

数回の売り上げ急伸を経て生産能力を拡充

注文件数が、生産能力を振り切る事態に コンプレッサの新工場を建設

竣工披露時の新吉田工場(1962年)
竣工披露時の新吉田工場(1962年)

生産体制の合理化や綱島工場の設備増強、一部工程での昼夜2交代制の導入で需要に対応してきたが、1959年から1968年までの間に大幅な売り上げ急伸が数回あり、ついには注文件数が、生産能力を振り切ってしまった。こうした事態を懸念していた当社は、1961年から工場施設の拡張を検討し、いくつかの案を吟味した結果、綱島工場の近くにコンプレッサの新工場を建設することが決定された。新吉田工場(第2工場/現、本社所在地)と命名された新工場には170名の社員が異動、同年9月から操業を開始した。